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2023.2.12 | カテゴリ:ブログ

父の祥月命日


こんにちは。
サイモントン療法認定カウンセラーの佐藤三佳です。
北海道の2月は
1年で一番寒い時期です。
最低気温は
マイナス20~30℃になる地域もありますが
札幌は、そこまで冷え込みません。
でも、
『しばれる~』
ついついそんな方言が・・・
 
先日、父の祥月命日で、
お経をあげてもらいました。
札幌から80キロほど離れている
実家のあった街にあるお寺の住職さんが
お経をあげてくれます。
早い物で来年には十七回忌です。
 
住職さんは、
私の高校の1年先輩で、
父の倒れたその日にも、
実家にお経をあげにきていました。
 
その日、私は伊豆高原にいました。
はじめて参加した、
ベーシックプログラムでした。
昼食後の休憩時間に
姉から電話で、
父が救急車で運ばれたという
連絡を受けました。
 
どんな状態なの?
「わからないの。
 今、車で実家に向かっている。」
 
私・・・帰った方がよいのかな?
「わからない。
 着いたら、連絡するから・・・」
 
かなり動揺していて、
午後のレクチャーは、
後ろのスタッフの席に
座らせてもらいました。
 
衝撃的なことがおこると、人って
声が出なくなることがあるんだな・・・
そんな経験をしました。
それでも、帰るべきかどうか、
迷っていた私に、
一緒に参加されていた住職さんが
声をかけてくれました。
「こういうときは
 帰ったほうがいい」
 
背中を押されて、
帰ることにした私は、
荷物をまとめて、羽田空港に向かいました。
最終便には間に合いそうでしたが、
航空券のチケットは
ネットで確認しても満席で、
「緊急の時のために
 数席は空いているはずだから、
 空港に行ってみたらいい」
その言葉を信じて、
チケットの予約はとれないまま、
空港に向かったのでした。
一番前の1席だけ空いていました。
 
たまたま、
千歳空港には、車で行っていたので、
日はまたぎましたが、
夜の内に実家までたどり着きました。
 
翌日、病院に行くと
人工呼吸器を使っていて
目を開けることのない父が
ベッドに寝ていました。
その後、父と会話をしたのは、
私の夢の中でだけでした。
 
プログラムに参加するために
仕事は休みをとっていたので、
そのまま実家で過ごしました。
休みが終わってからは、
実家から札幌まで通勤する日々でした。
そんな日々が、
急性期病院から、
療養型の病院に転院するまで続きました。
 
 
思い返せば、大変なことがたくさんありました。
転院先は、家族が探さなければならないこと。
転院先がせっかく決まったのに、
院内感染で、転院が中止になってしまったこと。
別の病院をまた探すことになったこと。
転院の際の移動手段も家族で手配と言われたこと。
人工呼吸器をつけているのに、
普通の乗用車で?
どうやって移動できるのだろう・・・
 
その頃は、
目の前の決断していかなければならないことに
必死にくらいついていた、ように思います。
母は混乱していて、
とても、何かを決断できる状態では無く、
病院で何かを言われる度に、
ビクビクしていて、
私が前面にでるしかないと思っていました。
 
大変なことはたくさんでしたが、
いろいろな助けがありました。
 
私がいない間の母のことは
従姉が気にかけてくれました。
転院先はほどなく決まりました。
顔が広かった父は、
消防署の会合などにも顔を出していたので、
そちらの関係から、
救急車での搬送をしてもらえることに
なりました。
 
祥月命日になると
「あの日」を思い出しますが、
意外と鮮明です。
それくらい衝撃的なできごとでした。
 
当時は、
不安や怒りも多かったように思います。
苦労がたくさんでした。
今は、表現が適切かどうかは迷いますが
「大変だった出来事」になっています。
 
ただ、頑張っていた私がいました。
迷いながら前を向いていた私がいました。
よくやってたな・・・
乗り越えてきた私がいました。
そこにはもう苦しみはありません。

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